ジャグリング・ユニット・フラトレス『白い花』感想(中西)

7 3月

こんばんは。中西です。

昨日、3月6日(日)にジャグリング・ユニット・フラトレス『白い花』を観てきました。せっかくなので、感想を書きます。

 1203ad_e29f3394f3194c5caf4e1b366db9dcca1203ad_1bf1d537d3bf496ea55d147df4ea28c4

ジャグリング・ユニット・フラトレスとは?

ジャグリング・ユニット・フラトレスは2014年に関西で活動するジャグラーを中心に結成。代表は宮田直人。旗揚げ公演『プラネタリウムと望遠鏡』に続いて、今回の『白い花』が2作品目となります。どちらも作・演出は宮田さんです。ジャグリングの公演では珍しい「言葉のあるジャグリングの舞台」をおこなっています。

僕は、体調不良で前回の『プラネタリウムと望遠鏡』がみれていなかったので、今回が初となります。

公演の形式としては物語をもった「演劇」であり、ジャグリングは主に、ある役の心情を補完する背景として使用されていました。

基本的にその他の関西の舞台ジャグリングはジャグリング(パフォーマンスとしての)を引き立たせるために「物語」ないしは「設定・キャラクター」が用意されたものが多いです。(Juggling Donuts live、Juggling Story Projectなど)そして、こちらの舞台では、「無言劇」が特徴です。フラトレスの珍しさが「言葉のあるジャグリングの舞台」であるのもうなずけます。

ちなみに、脱線ながら、関東の舞台ジャグリングは現代サーカスのような、ジャグリングにおける身体、物体の軌道を追求する団体(ながめくらしつ、空転軌道など)が主流で、そこには物語は存在せず、言葉もありません。

『白い花』感想

さて、『白い花』の感想を述べます。特に、「ジャグリングと言葉」という視点から。

もう一度確認すると、フラトレスにおけるジャグリングは、発話者における心情の背景、つまり代弁として現れます。それは、小説において、主人公の気持ちを察して、雨が降るという手法に似ています。

今回の作品では、言葉とジャグリングという点において、リングのオブジェを規則的に円のように並べると花弁のようにみえる、あるいは皿回しが傘にみえることから、ジャグリング道具の「見立て」が行われたり、積むという言葉と箱の積載のタイミングがリンクするなどダイレクトに言葉(概念)を具現化するといった方法が用いられていました。

視覚的な情報としてのジャグリングといえばいいでしょうか。

僕はふとこの方法はなにかに似ていると思いました。

それは、アニメです。アニメは視覚的な変化だけで感情のゆさぶりを大きくさせることがあります。

特に、物語の作風も相まって、「秒速5センチメートル」「言の葉の庭」などの新海誠の作品を思い出しました。

ただ、一方で、アニメと違い、この舞台においての「言葉」は発話であり、声であって、身体を経由し、観客との距離が存在することをこの作品で強くかんじました。

次回はどのような言葉が紡がれ、ジャグリングのどの点とリンクしていくのか。今からとても楽しみです。

それでは、フラトレスの『白い花』をみた感想は以上です。

ちなみに、次のピントクルの作品『像と響』はメディア・アートとの組み合わせによって、どのようにジャグリングが拡がるか?をテーマとしています。是非お楽しみに!

舞台芸術研究会

ちなみに、僕は今、京都の舞台芸術研究会という団体に所属して、月に1回舞台(演劇、ダンス、能など)をみて、上に書いたような劇評や感想を書いたりしています。

その舞台芸術研究会主催する研究発表ともいえる公演(劇団速度『珈琲店』)に出演するので、こちらもご都合つきましたら是非。

原作の演劇史的価値(コメディアデラルテから近代イタリア演劇への流れ)、メイエルホリドらのレリーフ演劇に着想を得て始まり、現在における「劇場」とは何か、セリフはどこからやってくるのか、果たしてこの試みは演劇なのか、などの問題提起に挑む意欲作となっております。詳細は下記にあります。

 

[insertpage 2123]
[insertpage 2069]