最近今更ながらフリースタイルラップバトルにハマってます。
隙間時間でyoutubeとかで試合みています。
個人的に面白いと感じるのは、スタイルウォーズという言葉の通り、ラップという懐の広いアートフォームに対してそれぞれがいろんなアプローチをしているところです。
「懐の広いアートフォーム」という言葉が意外としっくり来ているのは、実際にラップというのは「リズミカルに音読する」というようなシンプルな定義だからなのかなとも思います。
もちろん、「ヒップホップ」となると、黒人音楽とかのそれはそれでカルチャーのバックグラウンドがあってのものだけど、
日本のそれが面白いのは、ある意味そこらへんのカルチャーに乏しい分、多様なカルチャーと融合できたというところがあると思っています。(ここはただの消費者としての感想で、諸説あるとは思います。)
不良音楽としてのヒップホップラップもあれば、小林大吾のような文学に近い文脈の、いわゆるポエトリーリーディングもあって、ラップバトルを見ているとさらに一人芝居みたいな側面も感じます。(THA BLUE HERBなんて思いっきりヒップホップなのに宮沢賢治を朗読していたりします)
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いつの時代もジャンルトークというのは存在します。
ジャグリングとは何か、という問いは何度も繰り返されてきたと思います。
もちろん、それを深掘りすることにも価値はあると思いますが、個人的に「より面白い方向」が何かを考えてみると、境界線を使って遊ぶ、ということができれば素敵だなと思います。
ジャグリングとは何かを定義するという試みは内包的・演繹的なやり方で、いわば現実世界を直線で区切るというやり方です。
ただ現実世界は実際にはそんな綺麗な境界線などなく、でこぼこしたマージナルな領域に覆われた外延的・列挙的・帰納的な存在だと思います。
直線的な定義はそこの矛盾に苦しむわけですが、個人的にはそこは苦しむべき点ではなくそれ自体を楽しむことができると感じています。
つまり、「これはヒップホップラップだ」と言いながら文学作品を朗読するように、あえてジャンルという境界線を意識することによって現実の凸凹で「遊ぶ」というあり方があるのではないか。
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さて今回のオムニバスのテーマは「孤独」です。
序文を引用します。
「もの」と向き合う時、人は孤独である。人は孤独でなければ、「もの」と向き合うことができない。
孤独のありかたを教えたり、学んだりするところにジャグリングの可能性があるのではないか。
個人的な解釈ですが、ここでいう「孤独」とは、本を読むようなものなのかなと思います。
読書家は陰キャなイメージがありますし、実際に読書している最中の人は会話や会食ができないわけですから非社会的な存在≒孤独な存在といってもよいでしょう。
ただ、本を読むという行為は大いに社会的です。
言葉というのが既に社会的な存在ですし、書物が人が書いたものである以上、読書をする人は作者と本を介して対話しているといってもよいと思います。(めちゃくちゃ高校現代文みたいなこと言ってますがご容赦ください・・・)
ここで「対話」という表現を用いましたが、読書をする人はただ作者のイメージを一方的に受け取っているのではなく、そこに自らの解釈≒誤読を加えることで、自分だけの「読み」を実現していると考えることができます。
「もの」と向き合うときの話をします。
特にわれわれジャグラーがものと向き合う時、こと自分に関しては、全てから自由になって世界で一人になっているという感覚はあまりなく、
常に先行している人たちの体を参照しながら動いている気がします。
かといって、完全に先人を模倣しているわけではなく、そこに自分の体での解釈とか発想を加えることで、初めて”「もの」と向き合う”ということができているのかなと感じることがあります。
ちょうど、読書が作者との「対話」であり、一方的な聴取ではないというのと同じように。
そういう意味で、軽い気持ちで今考えていることを演者紹介に書いたら思いっきりオムニバス全体の趣旨に逆らっているような感じになってしまいましたが、
実際には「孤独である」ということと、「文脈の中にいる」ということは矛盾しない、ということをここで釈明しておきます。
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ヒップホップの世界では、歴史を知らないヒップホッパーは尊敬されないと、晋平太がyoutubeで言ってました。(浅い理解ですいません)
ジャンルとの向き合い方や姿勢について、彼らから学ぶことは多いのではないかと思います。
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偉い人たちがジャグリングの歴史をまとめようみたいなことをずっとみんな言っているのを、正直自分としてはあまりピンと来ていなかったのですが、
最近になって、自分のやっているスタイル的にも「ルーツ」や「文脈」を意識するようになってきて、けっこう歴史とか文脈って大事なのかなと思うようになりました。
今回観覧される皆さんにはまだピンと来ないかもしれないですが、興味を持つきっかけになればなと思って、今回の作品ではいま自分が思っていることをシェアさせていただきます
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「孤独」と「対話」は両立するという話をしましたが、これがある意味、私たちの救いになればいいなと思っています。
私たちは一人かもしれませんが、私たちの体は一人ではない。
そういう意味で、以下の序文を読むことはできないか。
コメントしながら、作業しながら、あるいは体を動かしながら、あなたも家からフェスティバルに参加してほしい。
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演者紹介 丹哲郎
作品名
『with respect』
紹介文
こんにち、ジャグリングという語のスコープは、「歩く」「走る」などと同じく単に運動の性質を表すにすぎません。
したがって、言葉だけで考えるとジャグリングとは無限の座標系の中に満遍なく存在しうるものです。
とはいうものの、現実界のジャグリングの分布には確かに偏りがあります。
その理由は、現実界のジャグリングはそれをやる人(担い手)がいなければ存在しないからです。
例えば担い手がみんな手元系をやりたがったのなら、理論的には無限にあるはずのジャグリングの実装のうち手元系ジャンルしか現実には存在しなくなるというわけです。
私はその担い手たちの傾向やそこにいたるまでのバックグラウンドをまとめて「カルチャー」と呼んでいます。
現実におけるジャグリングは、そういったカルチャーを受け継ぎ発展させてきた担い手によってつくられ実現されているものです。
自分のやっているスタイルについて考えてみると、物体の運動自体と白紙の状態で向き合った結果というよりは、
そういったカルチャーを受け継いできた結果としてのいまの自分のジャグリングがあるなと感じることが多いので、
それについて意識した状態でみてみると面白いかな?と思って、毎度のやり口ですが自分およびフラワースティックマルチコアの辿ってきた歴史について全部説明するということをやることにしました。
プロフィール
丹哲郎
1992年生まれ。Circus without Circleという団体を2013年に立ち上げる。社会の荒波にもまれ、2015年8月の公演を境に一時活動を休止するも、2020年に復活し、以降年2ぐらいのペースで作品を出している。
あとは口頭で説明します。
詳しくはこちら
https://note.com/cie_cwc/n/n68b52b7f6dbb
参考情報
丹哲郎
https://twitter.com/cie_cwc
https://www.instagram.com/cie_cwc/