「から、空、殻、唐、~、ゆう、you、悠、有、優、裕、勇・・・・・・」
はじめまして――(?)劇団なかゆびの神田真直です。縁あって、参加させていただくことになりました。「モノ」を「置く」のは舞台美術としてしばしば取り組んできましたが、ジャグリングのように「扱う」というのはあまりやってきませんでした。というわけでいろいろと考えていくところから出発です。
まず、「置く」「扱う」といったことを考えるまえに、「モノ」とは何かという問いを立てずにはいられませんでした。ただこれを言い出すと「万物の根源は水である」と云ったタレスのところまで引き返さなければならなくなります。ということで、もっと身近な〈俳優〉を敢えて「モノ」として考えてみました。もちろん、そこに先人の轍がないわけではありません。「考える」以上、アポリアに挑むことからは、どうやっても逃れることができないのです。
「困難は分割せよ」。〈俳優〉は二つの要素に分けることができます。すなわち現象的肉体と、記号的身体です。そしてポーランドの演出家グロトフスキーの「貧しい演劇」や、唐十郎の「特権的肉体論」はとりあえずすっとばして、大雑把に、「〈俳優〉から、現象的肉体を差し引いて、記号的身体のみを残すことは可能か」という問いを立てて、劇団なかゆびなりに構築しています。
なかゆびの劇ではある人物の断片的な記憶が声のみを介して語られます。その声に観客の皆様が傾聴することで、ようやく劇は成立します。そうして、その劇がその場を満たすのです。
さて、劇は何でできているのでしょうか。イタリアの劇作家ピランデッロは「劇が人物を創るのではなく、人物が劇を創るのだ。だから、何を措いてもまず人物が必要だ。生きて、自由に動く人物が」と述べています。「人物」という成句は、奇妙です。「人」が「物」として扱われることは、あまり好まれていないように思われます。しかし「人物」というと、「記号的身体」という客観的な=無味無臭の存在了解に変容します。とある「私」から「人物」だけを取り出して、表現することは可能なのでしょうか。この問いに答えを出すためには、どうしても、やはり観客の皆様が必要です。是非、劇場へ――。
作品自体の話をもう少しだけ。タイトルは、ジャン・コクトーのたいへん短い詩「耳」に着想を得ています。
私の耳は 貝のから
海の響きをなつかしむ (訳:堀口大學)
この詩とこの作品は、深いところででつながっています。しかしじつは私にも、その所在が摑めているわけではありません。もしかしたら、この詩がこの作品の「魂のすべての要約」なのかもしれません。ゆっくりと吐き出してみようと思います。
【自己紹介】
劇団なかゆび、神田真直です。今作品は何をもって「演者」(performer)というのか考えることになります。いつも、考えています。考えて、考えさせる劇団です。
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